水野真澄さん「アジア起業の歩き方」 第五章 独立起業
1.起業直後
起業初日、頭の中が真っ白で、緊張で一杯だった。
例えて言うなら、陸上競技のスタート台に立った気分という感じか。
大学卒業後の21年半、一貫して丸紅で勤務してきた。
どこにも所属していない状態は、社会に出てから初めてだ。
7月11日に設立登記されたMizuno Consultancyは、その時点ではまだ僕の会社になっていなかったので(9月4日に持分譲渡の手続を取った)、厳密に言えば、数日間は、無職とまではいかないが、所属無しの状態であった。
その時点の収入はゼロ。契約は1本もない。
退職金は、丸紅の住宅ローンの返済で消えてしまった。
香港の住居家賃はHK$ 33,000。
生活費、日本の住宅購入時の公庫ローンなど、自分が生きていく資金だけでも苦しいが、数か月後には、部下を迎え入れなくてはならない。
自分の人件費と香港の最低限の会社運用資金を賄うために40社。部下の受け入れを考えると、最低でも100社の顧問契約がいる。
0に戻ってしまった契約を、数ヶ月で100社にするのは、気の遠くなるような努力に思えた。
資金は限られている。
一刻も早く契約を取らなくてはならないと、心は焦りに焦っていた。
幸いなことに、初日に数件の面談が決まっていたので、朝一で家を飛び出し、夕方まで仕事をしていた。
その日のうちに、HK$5,000の小さなスポット契約が取れた。
今は、顧問契約先の方に限定してスポットサービスを提供させて頂いているが、その時は、えり好みできる状態ではない。
初日に何らかの収穫があった事で、少し心は楽になった。
オフィスは、共同出資者でもあるNACが、会議室と将来ジョインするアシスタント用のデスク1個を無償提供してくれたが、僕のデスクは無い。
中小田代表曰く、「さすがに水野さんが、その小さいデスクを使っているのは、見栄えが悪くて問題があります」という事だ。
その為、家で仕事をし、アポが取れるとNAC、若しくは、先方に出かけていった。
当時の自宅は、僕の部屋にはインターネットが引かれておらず、リビングのソファ脇の電話線を使用する必要があった。
毎日夜に帰宅すると、ソファの肘掛に不自然な姿勢で座り、深夜2時、3時までE-mailを打ち続けた。
不自然な姿勢で長時間いるため、背骨は歪みそうだし、首も痛くて仕方がなかった。
ともかく、色々な事が辛かったが、我慢して働き続けるしかなかった。
部下の移籍に付いては後述するが、年内の4ヶ月は僕一人だけで運営する事になった。
コンサルティングは当たり前の事として、契約が取れれば契約書と請求書の作成、封筒のあて名書き、郵便局での投函まで、やるのは全て僕だ。
辛くなかったと言えばうそになるが、「あと何年かすれば、僕が手書きした請求書の封筒は価値が出るさ」とうそぶいて、努めて明るく考えようとした。
実際、最初の数ヶ月は、毎日何らかの契約が取れたので、それが心の支えになった。
更に、成約管理、経理記帳など管理業務も僕自身がやった。
職業柄、経理記帳を始めとして、一通りの業務が自分自身でできるのは、コスト削減に役立った。
こうした作業をやりながら、顧問契約を獲得する必要があるため、休む暇はなかった。
一番大変だったのは、一定数の顧問先を獲得できた半年後で、5日連続2~3時間睡眠となった週が有り、その時は、頭痛に耐え、片手で頭を揉みさすりながら、PCを打ち続けたものであった。
金もなかった。
2ヶ月間はタクシーに乗れなかったので、移動は全て地下鉄、バス、電車だ。
暑い中、汗を流しながら歩き続け、スーツがくたくたになった。
上海に出張する際、丸紅社員時代は1,000元程度のホテルに宿泊したが、200元のホテルになった。起業最初の上海出張の時、初めて泊まる200元のホテルが、どんなところか心配で仕方がなかったが、意外に清潔でほっとした事を覚えている。
また、外食どころか、スターバックスのコーヒーも2ヶ月間飲めなかった。
顧客回りを続けたある日の夕方、懐具合を考えて入ったマクドナルドで、ぐったりしながらHK$2(30円)のソフトクリームをなめて疲れをとった。
広東省の日帰り出張から戻った夜には、吉野家でHK$28の牛丼を食べ、「結構高いなあ」と悲しくなった。
不安でみじめな気持も有ったが、「絶対に負けない」という闘争心も有った。
業績が安定するまでの数ヶ月間、勝ち残ってやる、と何度もつぶやいた。
2.たくさんの人たちのサポート
不安でいっぱいのスタートだったが、たくさんの方々が支援してくれた。
起業直後から、それまでの顧問先の方々が、僕に連絡をくれた。
それまで使っていた携帯電話番号やE-mailアドレスは変わってしまっていたし、退職時に結んだ競業禁止誓約の関係で、挨拶もしづらい状況だったが、新会社のHP、僕のブログなどから、連絡先を探しだし、契約してくれると言ってくれた。
以前の会社(M&C)の契約は3ヶ月単位で前払いだったので、その時点では、会費前払い済の方が殆どだ。
その場合は、M&Cに払い込んだ期間は、新会社(Mizuno Consultancy)では無償で対応する事としていたが、無償期間後の顧問料(数か月先の顧問料)を、敢えて前払してくれる方もいた。
香港商工会、香港貿易発展局、大阪商工会、日中投資促進機構等の方も、僕が丸紅退職と起業の報告をブログでした直後、連絡をくれ、講演会を依頼してくれた。
そして、古巣である丸紅もサポートしてくれた。
以前、会社を辞めて独立した人たちの経験を聞いた時、口をそろえて、「辞めた会社との契約は、まず無理だと思いますよ」と言っていた。
その為、起業前の事業計画では、丸紅関連の顧問先は無くなると想定していた。
ところが、真っ先に反応してくれたのは丸紅の営業部であった。
まだ、M&Cが、ある種、僕のコンペティターとして存在している時に、さっさと契約を僕の会社に切り替えてくれた。
中には、自分が紹介した顧問先に対して契約の切り替えを勧めてくれる元同僚もいた。
商社組織は縦割りで、部門が違えば別の会社という意識があるし、僕に対する金融物流部門の対応に疑問や反感を持つ社員も多く、それらの人々が僕のサポートに回ってくれた面もある。
それでも、社内手続きを踏んで僕と契約をするには、それなりの抵抗も受けたであろう。
そのステップを踏んで助けてくれた人たちを、僕は決して忘れない。
皆が契約する時に、「頑張れよ」、「頑張ってください」と言ってくれた。
最初の1年は本当に苦しかったけど、毎日の様に感動する事、胸を打たれる事があった。
だから乗り越えられたのだと思う。
クライアント、元同僚、提携先、友人、部下、その他のたくさんの人たちに、心から感謝したし、その気持はいまも変わらない。
3.Mizuno Consultancy Holdings設立
前述の様に、Mizuno Consultancy Holdings Ltdは、2008年7月11日の設立で、9月4日に7割の持分譲渡を受け、僕が代表取締役に就任した。
出資比率は僕が70%、NAC Globalが30%とした。NACは2倍のプレミアムで出資してくれた。
現在の資本金はHK$ 1,950千だが、これは日本円に換算すると3,000万円程度である。
当初、僕は、銀行預金1,000万円と丸紅の企業年金1,000万円を合わせた2,000万円を出資、NACは3,000千万円の投融資(出資はプレミア付き)という計画であった。
この話を両親にした時に、「1,000万円は貸してやるから、企業年金は絶対に取り崩すな」と言われ、まずは、手持ちの1,000千万円だけ出資して、併せてNACの出資を受けた。半年経過した時、会社からボーナスを受け取って、それを原資に追加出資した。
この結果、僕の出資がHK$1,050千、NACの出資がHK$900千となった。
幸いなことに、この段階で資金が足りてしまったため、出資はそこでストップし、MACからの追加投融資は受けなかった。
当初の計画の、半分以下の資金で会社が回った訳だが、中小田代表が、最初に3,000万円を申し出てくれたため、精神的なゆとりがあった。
これが無かったら、僕の初年度は、もっと悲壮感に満ちていたであろう。
香港に会社を作ると同時に、上海の会社設立を開始した。
上海の認可が取得できるまで、香港の契約獲得に全力を尽くす。そして、上海子会社が出来た後に、中国本土の契約獲得に入る計画であった。
上海子会社である、水野商務諮詢(上海)有限公司の設立は11月10日。
出資元となるMizuno Consultancy Holdingsが、設立間が無い個人出資会社であったため、上海での認可取得に若干の不安を感じた僕は、会社設立地として外高橋保税区を選定した。
ここであれば、数ヶ月前に政府機関から表彰されているし、表彰に際して僕を推薦してくれたのは、外資企業設立審査を行う外経処の処長なので、認可取得は問題ないと考えたのだ。水野商務諮詢(広州)有限公司の設立は翌年の5月と、上海設立の半年後であるが、これは、総経理を務める予定の麦の参加が、2009年4月となったためである。
尚、上海と広州の組織を、双方独立法人とするか、広州を上海の支店とするか暫く迷ったが、結果として、独立関係とする事にした。
これは、上海総経理の胡、広州総経理の麦に、何時までも僕の会社に留まってもらうため、出資者になってもらおうと考えたためである。
そうであれば、双方を別法人とした方が、自分の頑張りが直接配当に反映されるので分りやすい。
また、杉山には、日本で設立するコンテンツ関係合弁会社(チェイスチャイナ)の出資者兼社長を任せる事にした。
香港のオフィスは、上述の通り、NAC Globalが無償提供してくれた。
上海は、NNAが格安の友情価格で提供してくれた。
広州は、丸紅広州が、顧問契約を締結してくれると同時に、オフィススペース(以前、僕が現物出資をした丸紅広州保有の事務所)を提供してくれた。有償だが、小さな面積で済むので、独立した部屋を借りるよりはるかに有利だ。
ともあれ、色々な方が便宜を図ってくれた事で、最低限のオフィス家賃でスタートする事ができた。
また。この過程で、色々な勉強をした。
社会に出てから、大組織にいつも守られており、給与計算・振り込み、保険、インターネット、記帳、出納、その他、全て管理部門が対応してくれた。
その対価である、管理費負担金の計算・配賦を僕が担当していた頃もあるが、独立して自分でやってみると、意外に簡単で、また安価にできる事が分った。
インターネット、無線、携帯電話も発達しているので、PC、携帯電話が有れば、どこでも働ける。仕事はオフィスでするもの、という固定観念が有ったが、開業しばらくは、会社は登記だけで僕の席は無かったので、その概念が変わった。
ただ、初給与を自分で自分に払った時は、かなり違和感があったし、その違和感は数ヶ月間解消されなかった。
やはり、21年半に渡り、給与額は人が決め、そして払ってもらうものだったので、自分で額を決め、自分に対して払うというのは、感性が受け付けなかったのである。
4.Mizuno Consultancyの業績安定
丸紅の出資部門がM&Cを売らなかった事で、Mizuno ConsultancyとM&Cが併存関係となったが、M&Cにコンサルティング機能が無くなったので、僕と顧問契約を結ぶ事が決まった。
月額HK$ 3万であるが、これは、僕の香港の家賃に相当するため、大変ありがたい事であった。勿論、顧問関係は、M&Cを閉鎖するまでの、1年程度の期間ではあったが。
M&C側より、年内に杉山、胡、麦の3名が不在となると、M&Cの業務遂行ができなくなるという陳情を受け、ソフトランディングの観点より、以下の移管時期で合意した。
杉山2009年1月1日、胡2009年2月1日、麦2009年4月1日。
この結果、2008年内は、Mizuno Consultancyは僕一人であった。
2008年9月1日の起業から、全力疾走で7ヶ月が過ぎた頃、顧問先企業が約100社になり、部下を受け入れても、経営に問題ない基盤が出来ていた。
それと同時に、M&Cは営業停止が決定した。
そして、1年が経過した時点で、新会社は完全に軌道に乗った。
2009年8月31日には、上海のシャンパンバーに行き、1年前と同じ席に座って、ドンペリを開けた。
1年前が奢ってもらったのがブブクリコだったので、一周年では、もっと高いシャンパンを開けようと決めていた。
この日は、朝から気分が高揚していた。
1年前と同じ場所で、ドンペリで乾杯した時、自分が新しいステージに踏み出した、と思えたのである。
また、その時、丸紅退職と独立起業の顛末を、客観的に振り返る事ができた。
当初は、M&Cを売ってくれなかった事を恨みもしたが、結果として、買えなかった事が正解だった。
購入できなかった事で、最低限の経費からスタートできたし、何より、契約を切りかえてくれるクライアントの方々の思いに触れて、もっと感謝すべきだ、という気持を持つことができた。
更に言えば、起業独立も、絶妙のタイミングであった。
当初の理想は、定年退職後、生活が安定してからであったが、それでは、必死さ・凄みが出ず、周りの人たちに、あれほどの共感を持ってもらえなかったであろう。
起業1年目は本当に大変だった。
あれと同じ事をもう一回やれと言われても、できるかどうか疑問だ。
ある程度基盤ができており、体力と気力が充実していた45歳の頃は、独立のベストタイミングだったように思う。
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大学卒業後の21年半、一貫して丸紅で勤務してきた。
どこにも所属していない状態は、社会に出てから初めてだ。
7月11日に設立登記されたMizuno Consultancyは、その時点ではまだ僕の会社になっていなかったので(9月4日に持分譲渡の手続を取った)、厳密に言えば、数日間は、無職とまではいかないが、所属無しの状態であった。
その時点の収入はゼロ。契約は1本もない。
退職金は、丸紅の住宅ローンの返済で消えてしまった。
香港の住居家賃はHK$ 33,000。
生活費、日本の住宅購入時の公庫ローンなど、自分が生きていく資金だけでも苦しいが、数か月後には、部下を迎え入れなくてはならない。
自分の人件費と香港の最低限の会社運用資金を賄うために40社。部下の受け入れを考えると、最低でも100社の顧問契約がいる。
0に戻ってしまった契約を、数ヶ月で100社にするのは、気の遠くなるような努力に思えた。
資金は限られている。
一刻も早く契約を取らなくてはならないと、心は焦りに焦っていた。
幸いなことに、初日に数件の面談が決まっていたので、朝一で家を飛び出し、夕方まで仕事をしていた。
その日のうちに、HK$5,000の小さなスポット契約が取れた。
今は、顧問契約先の方に限定してスポットサービスを提供させて頂いているが、その時は、えり好みできる状態ではない。
初日に何らかの収穫があった事で、少し心は楽になった。
オフィスは、共同出資者でもあるNACが、会議室と将来ジョインするアシスタント用のデスク1個を無償提供してくれたが、僕のデスクは無い。
中小田代表曰く、「さすがに水野さんが、その小さいデスクを使っているのは、見栄えが悪くて問題があります」という事だ。
その為、家で仕事をし、アポが取れるとNAC、若しくは、先方に出かけていった。
当時の自宅は、僕の部屋にはインターネットが引かれておらず、リビングのソファ脇の電話線を使用する必要があった。
毎日夜に帰宅すると、ソファの肘掛に不自然な姿勢で座り、深夜2時、3時までE-mailを打ち続けた。
不自然な姿勢で長時間いるため、背骨は歪みそうだし、首も痛くて仕方がなかった。
ともかく、色々な事が辛かったが、我慢して働き続けるしかなかった。
部下の移籍に付いては後述するが、年内の4ヶ月は僕一人だけで運営する事になった。
コンサルティングは当たり前の事として、契約が取れれば契約書と請求書の作成、封筒のあて名書き、郵便局での投函まで、やるのは全て僕だ。
辛くなかったと言えばうそになるが、「あと何年かすれば、僕が手書きした請求書の封筒は価値が出るさ」とうそぶいて、努めて明るく考えようとした。
実際、最初の数ヶ月は、毎日何らかの契約が取れたので、それが心の支えになった。
更に、成約管理、経理記帳など管理業務も僕自身がやった。
職業柄、経理記帳を始めとして、一通りの業務が自分自身でできるのは、コスト削減に役立った。
こうした作業をやりながら、顧問契約を獲得する必要があるため、休む暇はなかった。
一番大変だったのは、一定数の顧問先を獲得できた半年後で、5日連続2~3時間睡眠となった週が有り、その時は、頭痛に耐え、片手で頭を揉みさすりながら、PCを打ち続けたものであった。
金もなかった。
2ヶ月間はタクシーに乗れなかったので、移動は全て地下鉄、バス、電車だ。
暑い中、汗を流しながら歩き続け、スーツがくたくたになった。
上海に出張する際、丸紅社員時代は1,000元程度のホテルに宿泊したが、200元のホテルになった。起業最初の上海出張の時、初めて泊まる200元のホテルが、どんなところか心配で仕方がなかったが、意外に清潔でほっとした事を覚えている。
また、外食どころか、スターバックスのコーヒーも2ヶ月間飲めなかった。
顧客回りを続けたある日の夕方、懐具合を考えて入ったマクドナルドで、ぐったりしながらHK$2(30円)のソフトクリームをなめて疲れをとった。
広東省の日帰り出張から戻った夜には、吉野家でHK$28の牛丼を食べ、「結構高いなあ」と悲しくなった。
不安でみじめな気持も有ったが、「絶対に負けない」という闘争心も有った。
業績が安定するまでの数ヶ月間、勝ち残ってやる、と何度もつぶやいた。
2.たくさんの人たちのサポート
不安でいっぱいのスタートだったが、たくさんの方々が支援してくれた。
起業直後から、それまでの顧問先の方々が、僕に連絡をくれた。
それまで使っていた携帯電話番号やE-mailアドレスは変わってしまっていたし、退職時に結んだ競業禁止誓約の関係で、挨拶もしづらい状況だったが、新会社のHP、僕のブログなどから、連絡先を探しだし、契約してくれると言ってくれた。
以前の会社(M&C)の契約は3ヶ月単位で前払いだったので、その時点では、会費前払い済の方が殆どだ。
その場合は、M&Cに払い込んだ期間は、新会社(Mizuno Consultancy)では無償で対応する事としていたが、無償期間後の顧問料(数か月先の顧問料)を、敢えて前払してくれる方もいた。
香港商工会、香港貿易発展局、大阪商工会、日中投資促進機構等の方も、僕が丸紅退職と起業の報告をブログでした直後、連絡をくれ、講演会を依頼してくれた。
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以前、会社を辞めて独立した人たちの経験を聞いた時、口をそろえて、「辞めた会社との契約は、まず無理だと思いますよ」と言っていた。
その為、起業前の事業計画では、丸紅関連の顧問先は無くなると想定していた。
ところが、真っ先に反応してくれたのは丸紅の営業部であった。
まだ、M&Cが、ある種、僕のコンペティターとして存在している時に、さっさと契約を僕の会社に切り替えてくれた。
中には、自分が紹介した顧問先に対して契約の切り替えを勧めてくれる元同僚もいた。
商社組織は縦割りで、部門が違えば別の会社という意識があるし、僕に対する金融物流部門の対応に疑問や反感を持つ社員も多く、それらの人々が僕のサポートに回ってくれた面もある。
それでも、社内手続きを踏んで僕と契約をするには、それなりの抵抗も受けたであろう。
そのステップを踏んで助けてくれた人たちを、僕は決して忘れない。
皆が契約する時に、「頑張れよ」、「頑張ってください」と言ってくれた。
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だから乗り越えられたのだと思う。
クライアント、元同僚、提携先、友人、部下、その他のたくさんの人たちに、心から感謝したし、その気持はいまも変わらない。
3.Mizuno Consultancy Holdings設立
前述の様に、Mizuno Consultancy Holdings Ltdは、2008年7月11日の設立で、9月4日に7割の持分譲渡を受け、僕が代表取締役に就任した。
出資比率は僕が70%、NAC Globalが30%とした。NACは2倍のプレミアムで出資してくれた。
現在の資本金はHK$ 1,950千だが、これは日本円に換算すると3,000万円程度である。
当初、僕は、銀行預金1,000万円と丸紅の企業年金1,000万円を合わせた2,000万円を出資、NACは3,000千万円の投融資(出資はプレミア付き)という計画であった。
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この結果、僕の出資がHK$1,050千、NACの出資がHK$900千となった。
幸いなことに、この段階で資金が足りてしまったため、出資はそこでストップし、MACからの追加投融資は受けなかった。
当初の計画の、半分以下の資金で会社が回った訳だが、中小田代表が、最初に3,000万円を申し出てくれたため、精神的なゆとりがあった。
これが無かったら、僕の初年度は、もっと悲壮感に満ちていたであろう。
香港に会社を作ると同時に、上海の会社設立を開始した。
上海の認可が取得できるまで、香港の契約獲得に全力を尽くす。そして、上海子会社が出来た後に、中国本土の契約獲得に入る計画であった。
上海子会社である、水野商務諮詢(上海)有限公司の設立は11月10日。
出資元となるMizuno Consultancy Holdingsが、設立間が無い個人出資会社であったため、上海での認可取得に若干の不安を感じた僕は、会社設立地として外高橋保税区を選定した。
ここであれば、数ヶ月前に政府機関から表彰されているし、表彰に際して僕を推薦してくれたのは、外資企業設立審査を行う外経処の処長なので、認可取得は問題ないと考えたのだ。水野商務諮詢(広州)有限公司の設立は翌年の5月と、上海設立の半年後であるが、これは、総経理を務める予定の麦の参加が、2009年4月となったためである。
尚、上海と広州の組織を、双方独立法人とするか、広州を上海の支店とするか暫く迷ったが、結果として、独立関係とする事にした。
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そうであれば、双方を別法人とした方が、自分の頑張りが直接配当に反映されるので分りやすい。
また、杉山には、日本で設立するコンテンツ関係合弁会社(チェイスチャイナ)の出資者兼社長を任せる事にした。
香港のオフィスは、上述の通り、NAC Globalが無償提供してくれた。
上海は、NNAが格安の友情価格で提供してくれた。
広州は、丸紅広州が、顧問契約を締結してくれると同時に、オフィススペース(以前、僕が現物出資をした丸紅広州保有の事務所)を提供してくれた。有償だが、小さな面積で済むので、独立した部屋を借りるよりはるかに有利だ。
ともあれ、色々な方が便宜を図ってくれた事で、最低限のオフィス家賃でスタートする事ができた。
また。この過程で、色々な勉強をした。
社会に出てから、大組織にいつも守られており、給与計算・振り込み、保険、インターネット、記帳、出納、その他、全て管理部門が対応してくれた。
その対価である、管理費負担金の計算・配賦を僕が担当していた頃もあるが、独立して自分でやってみると、意外に簡単で、また安価にできる事が分った。
インターネット、無線、携帯電話も発達しているので、PC、携帯電話が有れば、どこでも働ける。仕事はオフィスでするもの、という固定観念が有ったが、開業しばらくは、会社は登記だけで僕の席は無かったので、その概念が変わった。
ただ、初給与を自分で自分に払った時は、かなり違和感があったし、その違和感は数ヶ月間解消されなかった。
やはり、21年半に渡り、給与額は人が決め、そして払ってもらうものだったので、自分で額を決め、自分に対して払うというのは、感性が受け付けなかったのである。
4.Mizuno Consultancyの業績安定
丸紅の出資部門がM&Cを売らなかった事で、Mizuno ConsultancyとM&Cが併存関係となったが、M&Cにコンサルティング機能が無くなったので、僕と顧問契約を結ぶ事が決まった。
月額HK$ 3万であるが、これは、僕の香港の家賃に相当するため、大変ありがたい事であった。勿論、顧問関係は、M&Cを閉鎖するまでの、1年程度の期間ではあったが。
M&C側より、年内に杉山、胡、麦の3名が不在となると、M&Cの業務遂行ができなくなるという陳情を受け、ソフトランディングの観点より、以下の移管時期で合意した。
杉山2009年1月1日、胡2009年2月1日、麦2009年4月1日。
この結果、2008年内は、Mizuno Consultancyは僕一人であった。
2008年9月1日の起業から、全力疾走で7ヶ月が過ぎた頃、顧問先企業が約100社になり、部下を受け入れても、経営に問題ない基盤が出来ていた。
それと同時に、M&Cは営業停止が決定した。
そして、1年が経過した時点で、新会社は完全に軌道に乗った。
2009年8月31日には、上海のシャンパンバーに行き、1年前と同じ席に座って、ドンペリを開けた。
1年前が奢ってもらったのがブブクリコだったので、一周年では、もっと高いシャンパンを開けようと決めていた。
この日は、朝から気分が高揚していた。
1年前と同じ場所で、ドンペリで乾杯した時、自分が新しいステージに踏み出した、と思えたのである。
また、その時、丸紅退職と独立起業の顛末を、客観的に振り返る事ができた。
当初は、M&Cを売ってくれなかった事を恨みもしたが、結果として、買えなかった事が正解だった。
購入できなかった事で、最低限の経費からスタートできたし、何より、契約を切りかえてくれるクライアントの方々の思いに触れて、もっと感謝すべきだ、という気持を持つことができた。
更に言えば、起業独立も、絶妙のタイミングであった。
当初の理想は、定年退職後、生活が安定してからであったが、それでは、必死さ・凄みが出ず、周りの人たちに、あれほどの共感を持ってもらえなかったであろう。
起業1年目は本当に大変だった。
あれと同じ事をもう一回やれと言われても、できるかどうか疑問だ。
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