水野真澄さん「アジア起業の歩き方」 第三章 コンサルティング業務開始
1.コンサルティングの準備作業
コンサルティング業務の開始は2001年のことだった。
その後V字回復を果たした丸紅だが、その年は、株価が58円まで下落し、社員は、「会社は大丈夫だろうか」、「潰れる事はなかろうが、どこかに吸収合併されるのではなかろうか」など、顔を合わせば不安な気持ちを口にしていた。
僕が丸紅に入社した頃(1987年)、大手企業が倒産するなど考えもしなかったが、1997年以降の山一證券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行などの経営破綻により、大企業の破綻は現実味を増していた。
会社の財務状況が悪くなれば、信用格付けも下がり、資金調達が苦しくなる。
当時の全社的な掛け声は、「少額でもいい。資金を使わず、頭で利益を生もう」というものであった。
そんな状況の中、僕の中には不安と期待の二つの気持ちが交錯していた。
不安は当然だ。
会社が潰れれば、生活は苦しくなる。
吸収合併されても肩身は狭かろう。
改めて考えるまでもなく、たいした資格は持っていない。
就職活動の時、履歴書に書ける資格が、合気道二段と普通運転免許だけで、苦し紛れに英検二級と書いたら、「二級は履歴書に書くものではないよ」と笑われて、「すいません。書くものが無くて寂しかったんです!」と切り抜けた。今ならダメ出しを食らいそうだが、当時の面接はおおらかだった。
入社以降も一貫して資格に興味がなく、日々残業に明け暮れていた。
かろうじて取ったのは、香港赴任直前に受けた税理士試験の財務諸表論だけで、その時、はじめて、「資格試験を受けなかったのはまずかった。社内で知る人ぞ知る、というのは、知らない人は誰も知らないという事だ。職探しには不利だぞ」と痛感した。
一方、以前からやりたかったコンサルティング業務ができるかもしれない、という期待が有った。
嫌々配属された経理部だったが、徐々に面白さに目覚め、仕事に誇りを持つようになった過程は第二章で書いた。当時の日本は中国進出ブームに沸いていた。経理部配属以降の11年で蓄積したノウハウと、丸紅香港、広州などの組織を使えば、対外的なコンサルティングができるのではないかと考えた。そして、それは、ずっと前から、自分が本当にやりたい仕事であった。
その時、丸紅香港現法に赴任して4年が経過していた。
比較的大規模な現法だったが、それでも本社組織に比べれば比較にならないほど小規模で、オペレーションも単純だった。4年も担当していれば殆どの状況は把握できるし、香港人の同僚・部下も優秀なので、経理の仕事だけなら、0.5人分の労力で対応できそうだった。
余った0.5人分でコンサルティングをやらせてほしいと、当時の香港現法社長に相談したところ、経理業務に支障が出ない事を条件に、あっさりと許可が出た。
こんな感じで、コンサルティングに取り組む事が出来る様になった訳だが、初めてのビジネスなので、「何をどう始めるか」から考えねばならない。
考えなければいけない事は、いくらでもあった。
極めて初歩的な話だが、まず考えなければいけないのは、以下の点だ。
① 何をやるか(何ができるか)。
② どの様に認知度を高めるか。
③ どうやってビジネスを取るか。
まず、①の点(何をやるか)である。
商社に入って14年が経過していたが、一度も金を稼いだ事がない。
勿論、管理部門サービスを提供して管理費負担金を徴収したり、関連会社からスポットベースの手数料をもらったりした事はあるが、外部から純粋なフィーを稼いだ事は無い。
先ずは、自分が何をできるのか、という点を把握する必要があるため、改めて自分が入社以来やってきた事を振り返った。
経理部で勤務していた時は、国際経理税務の担当で、管理会計業務は当然ながら、組織再編、外貨管理やタックスプランニングを踏まえたビジネスモデルの構築、組織の開設・閉鎖などを担当した。
香港に赴任してからは、香港・華南地域における組織再編業務、政府機関との折衝、不良資産の整理、現地法人主管者等の業務を経験した。
少々古い話だが、入社3年目の福建省実務研修生時代は、見習の小僧という感じで、通訳、出迎え、ホテルのアレンジ等、体を使った業務を1年間やった。
当時は中国進出ブームの真っ盛りだったので、まずは、中国進出サポートから開始するのが妥当であろうと判断した。同時に、福州研修生時代の引っ越し荷物の引取りの経験を思い出した。中国の政府機関対応は、非効率でストレスがたまる。この仕事を請負えば、ビジネスになるのではないかと考えた。
米国に有って日本に無いものを探せばビジネスになる。また、日本に有って、中国にないものを探せば、中国でビジネスになる。隙間を探すのがビジネス開拓のポイントだ、というのが僕の持論だが、当時の中国では、コンサルティング業が一種の隙間となっていた。
その時の僕は、丸紅広州現法の管理部長を兼務しており、組織再編業務等を一緒にやってきた部下がいた。
丸紅上海現法にも、優秀な中国人社員がおり、頻繁に業務上の交信をしていた。
彼らと組めば、会社設立等の代行業務は問題ない。
打診してみると、彼らも新しい経験に繋がると乗り気になってくれた。
②の点(どの様に認知度を高めるか)に付いては、数ヶ月考え込んだ。
丸紅は商社としてのブランドはあるが、コンサルティング組織としてのブランドは無い。
よって、丸紅の名前を出しても、コンサルティング業界では武器にはならない、という現実に突き当たった。
実際、僕がコンサルティング業務を始めると言った時、同僚の反応は、「普通の会社は、弁護士や会計士に依頼する。わざわざ、商社の管理部門にコンサルティング依頼はしなかろう」というネガティブなものが主流であった。
そこで、自分たちの武器(自分が会計士・弁護士事務所等より優れている点)を明確に特定しようと考えた。その観点で、自分たちのスキルを分析してみると、「実務が分る」という点が売りになると思えたので、それを全面に打ち出した。
こう考えるに至ったのは、僕の丸紅本社経理部時代の経験がヒントとなっている。
当時の丸紅の組織は、各営業部門に所属している営業経理と、本社計数の管理を行う本部経理に分かれていたのは、前述の通りだ。
実務上のトラブルが発生した場合、営業担当者は、まず営業経理に相談する。その情報が本部経理に来るときは、営業経理が対応し、問題が解決した後なので、問題解決に到る交渉・判断の過程が分らない。例えて言えば、泥水が真水になった状態で、やっと情報が伝わる感じだ。更に、本部経理が、公認会計士に情報を伝える時は、更に整合性を整えているため、これも例えていうならば、殺菌処理がされた状態といえよう。
僕は、以前から、営業経理のトラブル解決機能に憧れを持っており、海外現地法人に赴任したら、その仕事を積極的にやろうと考えていた。
その経験が、ノウハウになっていったのである。
こうして身に着けた、実務経験を、コンサルティングビジネスの売りにしようと考えたのだ。勿論、理論でも、専門家(弁護士・会計士など)に負ける訳にはいかない。
中国の法制度は、25歳の頃から必死で勉強した自負があったので、法律面のアプローチも磨きをかけようと意思を固めた。
③の点(どうやってビジネスを取るか)は、②(どの様に認知度を高めるか)と重なる面がある。コンサルティング業界では、知名度が、案件獲得に直結するからである。
差別化の過程で、「法律だけでなく、実務も分る」というのを謳い文句にする事は決まったが、スローガンだけ唱えていても、商売が取れるとは思えない。
不特定多数の方々に、認知してもらわなければならない。
そう考えて、僕の原稿を、どこかに掲載してもらおうと考えた。
丁度良い事に、僕が2000年に作成した、「中国ビジネスQ&A」という社内配布冊子があった。これは、1994年に作った社内配布冊子(中国投資Q&A)の経験・反省点を活かし、駐在3年間の実務経験をふんだんに織り込んだものだが、これをどこかで連載してもらおうと考えた。
どこに送ろうか迷っていたら、当時、広州日本商工会の会長をしていた丸紅広州社長より、上海エクスプローラーに送ってみたらどうかと勧められた。上海エクスプローラーが、広州商工会のHPのメンテナンスを請け負っていた関係である。
サイトにE-mailアドレスが書かれていたので、原稿を添付して、掲載可否を打診したところ、二つ返事で連載が決まった。
当時の上海エクスプローラーは、設立数年しかたっておらず、コンテンツが不足していたのが幸いした。
この連載が、思った以上の評判になり、半年ちょっとの間に、香港ポスト(香港の日本人向けフリーペーパー)、NNA(現共同通信の子会社である通信社)、みずほ銀行華南地区会報などへの連載が決定し、僕の1冊目の本となる「中国ビジネス・投資Q&A」の出版に繋がった。やはり、それまでのマニュアルは、弁護士・会計士などの専門家が書いたものばかりで、ユーザーの観点から、実務に踏み込んで書いたものはなかった。そこが新鮮で、受けたのであろう。
こうした準広告活動により、丸紅香港が、中国ビジネスコンサルティングを提供する組織であるとの認知度が、徐々に高まっていった。
この様な知名度獲得方法は、費用(広告費)もかからないし、迅速な対応ができるという意味ではよかったが、「水野個人に依存しているのではないか」という印象を与えるというデメリットもあった。
僕自身は今でも、早く結果を生むためには、この方法しかなかったと思っているが、思わぬ副作用を生む結果になり、数年後に、僕が丸紅を辞める一因にもなった。
その点に付いては、後述する。
2.コンサルティングの滑り出し
2001年4月から9月にかけて同僚たちと、コンサルティングビジネスの企画を練った。
丸紅上海と丸紅広州との調整も必要だったので、コンサルティングビジネス開始は2001年10月からとなったが、有難い事に、開始直後に、香港ポストの連載を読んだ大手メーカーから、最初の依頼があった。広州での駐在員事務所開設に伴うコンサルティングだ。
その日の内に、企業訪問し、1時間程度プレゼンをして、契約を獲得した。
そして、半年間に、少額ながら、何件かの契約を獲得し、コンサルティングビジネス継続の道が開けたのである。
2002年4月から、コンサルティング業務が本格的に稼働した。
本格稼働初年度となる2002年は、本当に良い年であった。
先ずは執筆関係であるが、NNAの連載(毎週)が、2002年1月から始まった。
中国駐在のビジネスマンの間に浸透している通信誌なので、ビジネス開拓には、大きな影響が有った。
次に、2冊の本が出た。
最初の本(中国ビジネス投資Q&A)は、自費出版で、僕個人が負担するつもりであったが、丸紅香港の社長が会社負担を許可してくれ、200万円程度の制作費用は全額会社負担となった。当然、収入の大部分は丸紅香港に帰属する事となるが。
本を出す時点では、この本が売れるとは夢にも思わなかったが、予想外の売れ行きで、数ヶ月で初版5,000部が完売し増刷となった。
香港で一番大きな日本語書店である旭屋の、2002年の年間売上ランキングでは、1位(中国ビジネス・投資Q&A)と4位(初めての中国ビジネス)が僕の本となった。
今では、ビジネス書が一般書籍を押さえて1位になるというのは考えにくいが、当時は、香港駐在員が、迅速な中国ビジネス開拓を本社から指示されていた時代なので、僕としては、運がよかったのである。
この様な反響を受けて、僕の本は、香港だけでなく、日本の書店でも流通した。
日本に一時帰国した際、書店に自分の本が並んでいるのを見て、嬉しくて見入ってしまったのが懐かしい。
また、韓国語版出版の話も舞い込んだ。
残念ながら、この話は、翻訳が終わり、著作料を受け取った時点で出版社が潰れてしまったため、日の目は見ず、韓国語での書籍販売は、約10年後の「中国人のルール」までお預けとなったが。
次に、2002年11月には、NHKの経済最前線への出演も決まった(その後、5~6回出演)。いきなりの生放送で緊張したが、無事に何回かの放送を切り抜けた。
講演会の依頼も多く、毎月、何件かの講演をこなした。
2002年の大晦日、午前中で仕事を切り上げて、行きつけの日本料理屋で、定食を食べながら飲んだ日本酒は、最高に美味しく、その時の僕は、充実感に包まれていた。
その時は、全てが上手くいくような幸福感に包まれていたが、あれほど美味しく酒を飲む機会は、その後、何年経っても来なかった。
ビギナーズラックもあって、2002年はやることなす事うまくいったが、年が明けた2003年は、SARSの蔓延による一時的なビジネス停滞や、計数目標から受けるプレシャーで、一転して悲壮感が漂い出した。
これは後述する。
3.情報収集、人脈作り、展開のポイント
2001~2002年は、中国進出の記事が、連日、新聞紙面をにぎわせていた。
他商社も、日本企業の中国進出サポートを企画し、それが一流紙に記事として取り上げられていた。
記憶に残っているのは、財閥系総合商社の香港現法に関する、「商社のノウハウで中小企業の中国進出をサポートし、資金支援にも対応する」という日経新聞の記事だ。
僕のコンサルティング開始と同時期なので、興味を持って読んだが、結局、中国進出を無償サポートする代わりに、商流に入る(その商社経由で売買をさせる)という趣旨であり、感覚的に、「この試みは成功すまい」と考えた。
商社の重要な機能に、金融機能があるのは確かである。
銀行が融資をするように、商社は売り与信で資金を提供するので、借入枠が限られる中小企業にとって、商社は重要な資金調達先である。
一方、総合商社の存在は大きく、取り込まれ、身動きが取れなくなるのでは、という恐怖心を持つ中小企業も少なくない。
その為、最初から商流介入を前提とした進出サポートでは、警戒心が勝って、企業側がヘジテイトするのではないかと考えたのだ。
実際、当時の新聞には、連日日本企業の中国進出記事が出るものの、丸紅香港に在籍していた僕には、その熱気が実感できなかった。これは、中国進出を検討する企業の多くは、銀行、ジェトロ、商工会など、総合商社以外の組織に相談するためである。
「中国進出情報が欲しかったら、まず、商社の営業色を消さなくてはいけない」と考えた僕は、商社営業と一線を画し、コンサルティングを、完全に僕のビジネスとして位置付ける事にした。
更に、前述の通り、「情報は発信するところに集まってくる」という意見を持っていたので、情報発信を続ければ、何らかの反応があるに違いないと考えた。
インターネットや新聞、雑誌での連載は、そのためのものである。
では、商社営業に全く貢献しなくてよいかと言えば、そう割り切っていた訳でもない。
コンサルティングを提供した結果、丸紅に対する警戒心が無くなり、営業部を紹介して欲しいとの依頼が来ることがある。
その段階で、商社営業に繋げればよいと考えていた。
商社の営業色を消し、純粋なコンサルティングと位置付けた事で、徐々に実績は上がっていったが、社内では批判の声もあった。
「水野は二言目には守秘義務といい、一切の情報をシャットアウトしている。これでは商社としてコンサルティングをやらせている意味が無い」という意見が、それを代表する。
ただ、僕は全く聞く耳を持たず、「焦って孵りかけの卵を潰す事はない」と反論していた。
この様な賛否両論が有ったのは確かだが、その中で、温かい目で見守ってくれる上司・同僚がたくさんいた。結果として、徐々にではあるがビジネスを伸ばす事ができた。そして、今の僕が有る。
支援をしてくれた方々には、今でも深く感謝しているが、このギャップ(商社とコンサルティングの親和性)というのは、なかなか難しい問題で、最終的にそれが理由で、丸紅を辞めて独立する事になったのも確かである。
4.コンサルティング事業のその後
コンサルティングの本格始動初年度は、最高の形で終わったが、年明け早々、暗雲が垂れ込めた。これは、2003年早々から感染が拡大したSARS(重症急性呼吸器症候群)の影響である。
2003年早々に感染者が出ると、凄まじい勢いで蔓延し、中国本土・香港合計で7,000人以上の感染者、650人近い死者が出た。
特に、発症が広東省から広まった事から、香港・華南の影響は甚大で、人口約700万人の香港では、2,000人近い感染者が出た。
2003年4月には、香港のTV画面に、常に、感染者数・死亡者数が表示され、それが、刻一刻と増加していく。
街は静まり返っており、道行く人は皆マスクをしている。
エレベーターのボタンも指で押したがらないという、異常な状況であった。
昔見た、病原菌テロの映画を思い出し、それが、自分が住んでいる場所で進行している現実が信じられなかった。
当然、日本からの出張は禁止になるし、香港でも面談依頼はしにくい状況となる。
コンサルティングビジネスも一時期ストップを余儀なくされた。
せめてもの抵抗で、NNAと組んで、NNA読者限定の無料面談(無料コンサルティングの実施)をし、先方から面談を希望してもらうという企画を実施した。
残念ながら、ビジネスには殆ど結びつかなかったが、宣伝にはなったし、面談希望者が何人も来てくれたので、焦る気持ちを紛らわせる事ができた。
また、既存案件を履行するために、周囲の反対を押し切って、深圳や広州に出張した。
伝染病に対する恐怖よりも、思うように仕事ができないいらだちの方が強かった。
順調なスタートを切った新規ビジネスを、一刻も早く軌道に乗せたいと考えていた矢先にこの状況である。
ただ、こればかりは自分の努力では何ともならない。
数ヶ月後には、「環境に逆らわず、できる限りの事をしよう」と開き直り、逆境の中ではあるが、少しずつ契約が取れていった。
蛇足になるが、SARSが流行している間、家族が日本に避難したため、香港・中国本土内には、にわか単身赴任者が多数残された。
自炊ができない人間も多いため、二次会には行かないものの、夜の会食の誘いは多かった。
日本企業の出張自粛で交際費枠の消化ができないと悩んでいる(?)方も多く、そんな方々の招待で、何度も高級寿司屋に行った。
最初は、怖くてびくびくしていたが、日本人に感染者が出なかった事もあって、4月頃中旬以降は、完全に開き直り、喜んで鮨を食べていた。
SARSで外食産業が多数閉店、経営不振を余儀なくされたが、日本人相手の店は、少々状況が違い、店によっては特需景気の様になっていたのである。
SARSが収束するのは2003年7月で、この時をひたすら待っていた僕は、後れを挽回するため、積極的に講演会を開いた。
広州⇒中山⇒深圳と移動しながら講演会を開いた事は、今でも覚えている。
久々に、明るい気分に満ちた数日間だった。
SARS明けに、それまでサスペンドされていた日本企業の中国出張が再開し、反動で大忙しとなった。ほっとしたのは良かったが、その頃から、仕事に対するプレッシャーが大きくなった。
コンサルティング開始当初は、社内では誰も僕に期待していないので、何をやってもすごいねと褒められたのが、知名度が上がるに従い、期待が高まった。そして、同じ事をやっても、文句を言われるようになってくる。それがプレッシャーに繋がった。
僕は丸紅に入社してから、一貫して管理部門に所属していたため、自分の収益獲得ノルマ(予算)を負った事は一度も無かった。
経理マンにとって、決算とは、材料(営業部の損益・その他の計数要素)を基に、形作るものである。自分で材料を形作っていく苦労、つまり利益を上げていく苦労は、頭で分かっているつもりでも、実際にやってみると、想像を絶する苦しさだった。
5.海外の日本人社会
僕が新規事業を開始できた理由の一つに、「(日本ではなく)海外で始めたから」という点があると思っている。
「海外でよく立ち上げましたね」と言われる事があるが、一定の基盤と経験さえあれば、海外での事業立ち上げの方が、日本での立上げよりも却って容易である。
それは、少なくとも外資企業(日系企業を含む)関連の仕事をする限り、海外の方が、ソサエティが小さく競争が少ないからである。
当たり前の話だが、日本にいる日本人、日本企業が一番多い。
その中で、後発で事業を立ち上げて、特色を出していくのは大変だ。
海外での事業立ち上げは、この様な、立ち上げ時の競争を回避できる点でメリットがある。
また、海外には、日本商工会、県人会、その他の組織が有るため、この様な組織で人脈を掴み、その輪を徐々に広げていく事ができる。
この様な過程を経て、日本に逆上陸という方法も考えられる。
僕の場合も、最初は香港限定出版の予定であった書籍が、日本での流通に乗る様になったし、最初の講演会は香港だけであったが(香港商工会などの主催)、一定期間を経過すると、日本での講演会が主流になった。
更に、最初のビジネス関係は、香港・中国本土にいる僕と、日本企業の中国子会社間に限定されていたが、今では、本社を含めての関係となっている。
情報化が進み、すっかり狭くなった今の世界では、この様な逆展開が容易になっているのである。
因みに、海外の日本人社会で生活する際の注意点であるが、それは一種の閉鎖社会だという事である。
良い噂も悪い噂もすぐに広がる。
人脈を作るのは容易だが、一回でも不義理をすれば、その社会では生きられなくなる。
これにより、モラルが保たれている部分があるのはいいことだが、窮屈に思う事もある。
大学時代、五島列島出身の友人に、「卒業したら五島に帰って家業を継がないのか」と聞いたところ、彼の答えは、「お前は、田舎を知らないから、そんな事を言うんだ」というものであった。
彼曰く、高校時代、遅刻しそうになって走って登校すると、帰宅時には〇〇さんの息子が走っていたと、近所で話題になっているのだそうだ。
その時は、実感がわかなかったが、香港に赴任して数年経った頃、出社直後に同僚から「水野さん、昨晩三越前を歩いていたでしょう。知り合いから聞きましたよ」と言われて納得した。狭い社会で生きるのは、それなりに窮屈さを伴う。
6.コンサルティングを始めて変わった事
コンサルティングを始めて変わった事の一つに、知り合う人の数、経験の種類が大きく広がった事があげられる。
丸紅香港の経理だけやっていた頃は、1年の名刺交換枚数が、多くて50枚程度であった。
会議は殆どが社内会議であり、スケジュール表に書かなくても、この先一週間のスケジュールが覚えられた。
それが、コンサルティングを始めた事で、1年間の名刺交換枚数が2,000枚程度に増えた。
メーカー、物流会社、政府機関、新聞記者、TV局、ベンチャー企業など、付き合う業種も大きく広がり、それが刺激になった。
同じ会社の人間とだけ話していると、社内文化・社内言語が共通しているため、意思疎通も容易で、その分甘えが生じやすい。
幅広い業種、年齢層の方々と話す経験ができた事で、会議の際の伝達方法や言葉遣いも磨きをかける必要が生じた。
面談相手が、どの分野に詳しく、どの分野は不得手かを適格に把握し、それに合わせた説明をする必要があるからである。
メーカーとの取引が増えた事から、中国全土のみならず、日本でも数多くの工場を訪問した。そこで、商社とは違う価値観を学んだし、メーカーの人間の、商社とは違う逞しさ、そして拘りを体感した。
商社で経理をやっているだけでは、こんな経験はできなかったであろう。
TV出演や新聞・雑誌の取材もしかり。
業種が違えば、価値観やこだわりも違う。
色々な業種の方々と知り合い話をする事で、学ぶことが多かったし、経験の幅も広がった。
何より、沢山の人と話すのが楽しかった。
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1.コンサルティングの準備作業
コンサルティング業務の開始は2001年のことだった。
その後V字回復を果たした丸紅だが、その年は、株価が58円まで下落し、社員は、「会社は大丈夫だろうか」、「潰れる事はなかろうが、どこかに吸収合併されるのではなかろうか」など、顔を合わせば不安な気持ちを口にしていた。
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会社の財務状況が悪くなれば、信用格付けも下がり、資金調達が苦しくなる。
当時の全社的な掛け声は、「少額でもいい。資金を使わず、頭で利益を生もう」というものであった。
そんな状況の中、僕の中には不安と期待の二つの気持ちが交錯していた。
不安は当然だ。
会社が潰れれば、生活は苦しくなる。
吸収合併されても肩身は狭かろう。
改めて考えるまでもなく、たいした資格は持っていない。
就職活動の時、履歴書に書ける資格が、合気道二段と普通運転免許だけで、苦し紛れに英検二級と書いたら、「二級は履歴書に書くものではないよ」と笑われて、「すいません。書くものが無くて寂しかったんです!」と切り抜けた。今ならダメ出しを食らいそうだが、当時の面接はおおらかだった。
入社以降も一貫して資格に興味がなく、日々残業に明け暮れていた。
かろうじて取ったのは、香港赴任直前に受けた税理士試験の財務諸表論だけで、その時、はじめて、「資格試験を受けなかったのはまずかった。社内で知る人ぞ知る、というのは、知らない人は誰も知らないという事だ。職探しには不利だぞ」と痛感した。
一方、以前からやりたかったコンサルティング業務ができるかもしれない、という期待が有った。
嫌々配属された経理部だったが、徐々に面白さに目覚め、仕事に誇りを持つようになった過程は第二章で書いた。当時の日本は中国進出ブームに沸いていた。経理部配属以降の11年で蓄積したノウハウと、丸紅香港、広州などの組織を使えば、対外的なコンサルティングができるのではないかと考えた。そして、それは、ずっと前から、自分が本当にやりたい仕事であった。
その時、丸紅香港現法に赴任して4年が経過していた。
比較的大規模な現法だったが、それでも本社組織に比べれば比較にならないほど小規模で、オペレーションも単純だった。4年も担当していれば殆どの状況は把握できるし、香港人の同僚・部下も優秀なので、経理の仕事だけなら、0.5人分の労力で対応できそうだった。
余った0.5人分でコンサルティングをやらせてほしいと、当時の香港現法社長に相談したところ、経理業務に支障が出ない事を条件に、あっさりと許可が出た。
こんな感じで、コンサルティングに取り組む事が出来る様になった訳だが、初めてのビジネスなので、「何をどう始めるか」から考えねばならない。
考えなければいけない事は、いくらでもあった。
極めて初歩的な話だが、まず考えなければいけないのは、以下の点だ。
① 何をやるか(何ができるか)。
② どの様に認知度を高めるか。
③ どうやってビジネスを取るか。
まず、①の点(何をやるか)である。
商社に入って14年が経過していたが、一度も金を稼いだ事がない。
勿論、管理部門サービスを提供して管理費負担金を徴収したり、関連会社からスポットベースの手数料をもらったりした事はあるが、外部から純粋なフィーを稼いだ事は無い。
先ずは、自分が何をできるのか、という点を把握する必要があるため、改めて自分が入社以来やってきた事を振り返った。
経理部で勤務していた時は、国際経理税務の担当で、管理会計業務は当然ながら、組織再編、外貨管理やタックスプランニングを踏まえたビジネスモデルの構築、組織の開設・閉鎖などを担当した。
香港に赴任してからは、香港・華南地域における組織再編業務、政府機関との折衝、不良資産の整理、現地法人主管者等の業務を経験した。
少々古い話だが、入社3年目の福建省実務研修生時代は、見習の小僧という感じで、通訳、出迎え、ホテルのアレンジ等、体を使った業務を1年間やった。
当時は中国進出ブームの真っ盛りだったので、まずは、中国進出サポートから開始するのが妥当であろうと判断した。同時に、福州研修生時代の引っ越し荷物の引取りの経験を思い出した。中国の政府機関対応は、非効率でストレスがたまる。この仕事を請負えば、ビジネスになるのではないかと考えた。
米国に有って日本に無いものを探せばビジネスになる。また、日本に有って、中国にないものを探せば、中国でビジネスになる。隙間を探すのがビジネス開拓のポイントだ、というのが僕の持論だが、当時の中国では、コンサルティング業が一種の隙間となっていた。
その時の僕は、丸紅広州現法の管理部長を兼務しており、組織再編業務等を一緒にやってきた部下がいた。
丸紅上海現法にも、優秀な中国人社員がおり、頻繁に業務上の交信をしていた。
彼らと組めば、会社設立等の代行業務は問題ない。
打診してみると、彼らも新しい経験に繋がると乗り気になってくれた。
②の点(どの様に認知度を高めるか)に付いては、数ヶ月考え込んだ。
丸紅は商社としてのブランドはあるが、コンサルティング組織としてのブランドは無い。
よって、丸紅の名前を出しても、コンサルティング業界では武器にはならない、という現実に突き当たった。
実際、僕がコンサルティング業務を始めると言った時、同僚の反応は、「普通の会社は、弁護士や会計士に依頼する。わざわざ、商社の管理部門にコンサルティング依頼はしなかろう」というネガティブなものが主流であった。
そこで、自分たちの武器(自分が会計士・弁護士事務所等より優れている点)を明確に特定しようと考えた。その観点で、自分たちのスキルを分析してみると、「実務が分る」という点が売りになると思えたので、それを全面に打ち出した。
こう考えるに至ったのは、僕の丸紅本社経理部時代の経験がヒントとなっている。
当時の丸紅の組織は、各営業部門に所属している営業経理と、本社計数の管理を行う本部経理に分かれていたのは、前述の通りだ。
実務上のトラブルが発生した場合、営業担当者は、まず営業経理に相談する。その情報が本部経理に来るときは、営業経理が対応し、問題が解決した後なので、問題解決に到る交渉・判断の過程が分らない。例えて言えば、泥水が真水になった状態で、やっと情報が伝わる感じだ。更に、本部経理が、公認会計士に情報を伝える時は、更に整合性を整えているため、これも例えていうならば、殺菌処理がされた状態といえよう。
僕は、以前から、営業経理のトラブル解決機能に憧れを持っており、海外現地法人に赴任したら、その仕事を積極的にやろうと考えていた。
その経験が、ノウハウになっていったのである。
こうして身に着けた、実務経験を、コンサルティングビジネスの売りにしようと考えたのだ。勿論、理論でも、専門家(弁護士・会計士など)に負ける訳にはいかない。
中国の法制度は、25歳の頃から必死で勉強した自負があったので、法律面のアプローチも磨きをかけようと意思を固めた。
③の点(どうやってビジネスを取るか)は、②(どの様に認知度を高めるか)と重なる面がある。コンサルティング業界では、知名度が、案件獲得に直結するからである。
差別化の過程で、「法律だけでなく、実務も分る」というのを謳い文句にする事は決まったが、スローガンだけ唱えていても、商売が取れるとは思えない。
不特定多数の方々に、認知してもらわなければならない。
そう考えて、僕の原稿を、どこかに掲載してもらおうと考えた。
丁度良い事に、僕が2000年に作成した、「中国ビジネスQ&A」という社内配布冊子があった。これは、1994年に作った社内配布冊子(中国投資Q&A)の経験・反省点を活かし、駐在3年間の実務経験をふんだんに織り込んだものだが、これをどこかで連載してもらおうと考えた。
どこに送ろうか迷っていたら、当時、広州日本商工会の会長をしていた丸紅広州社長より、上海エクスプローラーに送ってみたらどうかと勧められた。上海エクスプローラーが、広州商工会のHPのメンテナンスを請け負っていた関係である。
サイトにE-mailアドレスが書かれていたので、原稿を添付して、掲載可否を打診したところ、二つ返事で連載が決まった。
当時の上海エクスプローラーは、設立数年しかたっておらず、コンテンツが不足していたのが幸いした。
この連載が、思った以上の評判になり、半年ちょっとの間に、香港ポスト(香港の日本人向けフリーペーパー)、NNA(現共同通信の子会社である通信社)、みずほ銀行華南地区会報などへの連載が決定し、僕の1冊目の本となる「中国ビジネス・投資Q&A」の出版に繋がった。やはり、それまでのマニュアルは、弁護士・会計士などの専門家が書いたものばかりで、ユーザーの観点から、実務に踏み込んで書いたものはなかった。そこが新鮮で、受けたのであろう。
こうした準広告活動により、丸紅香港が、中国ビジネスコンサルティングを提供する組織であるとの認知度が、徐々に高まっていった。
この様な知名度獲得方法は、費用(広告費)もかからないし、迅速な対応ができるという意味ではよかったが、「水野個人に依存しているのではないか」という印象を与えるというデメリットもあった。
僕自身は今でも、早く結果を生むためには、この方法しかなかったと思っているが、思わぬ副作用を生む結果になり、数年後に、僕が丸紅を辞める一因にもなった。
その点に付いては、後述する。
2.コンサルティングの滑り出し
2001年4月から9月にかけて同僚たちと、コンサルティングビジネスの企画を練った。
丸紅上海と丸紅広州との調整も必要だったので、コンサルティングビジネス開始は2001年10月からとなったが、有難い事に、開始直後に、香港ポストの連載を読んだ大手メーカーから、最初の依頼があった。広州での駐在員事務所開設に伴うコンサルティングだ。
その日の内に、企業訪問し、1時間程度プレゼンをして、契約を獲得した。
そして、半年間に、少額ながら、何件かの契約を獲得し、コンサルティングビジネス継続の道が開けたのである。
2002年4月から、コンサルティング業務が本格的に稼働した。
本格稼働初年度となる2002年は、本当に良い年であった。
先ずは執筆関係であるが、NNAの連載(毎週)が、2002年1月から始まった。
中国駐在のビジネスマンの間に浸透している通信誌なので、ビジネス開拓には、大きな影響が有った。
次に、2冊の本が出た。
最初の本(中国ビジネス投資Q&A)は、自費出版で、僕個人が負担するつもりであったが、丸紅香港の社長が会社負担を許可してくれ、200万円程度の制作費用は全額会社負担となった。当然、収入の大部分は丸紅香港に帰属する事となるが。
本を出す時点では、この本が売れるとは夢にも思わなかったが、予想外の売れ行きで、数ヶ月で初版5,000部が完売し増刷となった。
香港で一番大きな日本語書店である旭屋の、2002年の年間売上ランキングでは、1位(中国ビジネス・投資Q&A)と4位(初めての中国ビジネス)が僕の本となった。
今では、ビジネス書が一般書籍を押さえて1位になるというのは考えにくいが、当時は、香港駐在員が、迅速な中国ビジネス開拓を本社から指示されていた時代なので、僕としては、運がよかったのである。
この様な反響を受けて、僕の本は、香港だけでなく、日本の書店でも流通した。
日本に一時帰国した際、書店に自分の本が並んでいるのを見て、嬉しくて見入ってしまったのが懐かしい。
また、韓国語版出版の話も舞い込んだ。
残念ながら、この話は、翻訳が終わり、著作料を受け取った時点で出版社が潰れてしまったため、日の目は見ず、韓国語での書籍販売は、約10年後の「中国人のルール」までお預けとなったが。
次に、2002年11月には、NHKの経済最前線への出演も決まった(その後、5~6回出演)。いきなりの生放送で緊張したが、無事に何回かの放送を切り抜けた。
講演会の依頼も多く、毎月、何件かの講演をこなした。
2002年の大晦日、午前中で仕事を切り上げて、行きつけの日本料理屋で、定食を食べながら飲んだ日本酒は、最高に美味しく、その時の僕は、充実感に包まれていた。
その時は、全てが上手くいくような幸福感に包まれていたが、あれほど美味しく酒を飲む機会は、その後、何年経っても来なかった。
ビギナーズラックもあって、2002年はやることなす事うまくいったが、年が明けた2003年は、SARSの蔓延による一時的なビジネス停滞や、計数目標から受けるプレシャーで、一転して悲壮感が漂い出した。
これは後述する。
3.情報収集、人脈作り、展開のポイント
2001~2002年は、中国進出の記事が、連日、新聞紙面をにぎわせていた。
他商社も、日本企業の中国進出サポートを企画し、それが一流紙に記事として取り上げられていた。
記憶に残っているのは、財閥系総合商社の香港現法に関する、「商社のノウハウで中小企業の中国進出をサポートし、資金支援にも対応する」という日経新聞の記事だ。
僕のコンサルティング開始と同時期なので、興味を持って読んだが、結局、中国進出を無償サポートする代わりに、商流に入る(その商社経由で売買をさせる)という趣旨であり、感覚的に、「この試みは成功すまい」と考えた。
商社の重要な機能に、金融機能があるのは確かである。
銀行が融資をするように、商社は売り与信で資金を提供するので、借入枠が限られる中小企業にとって、商社は重要な資金調達先である。
一方、総合商社の存在は大きく、取り込まれ、身動きが取れなくなるのでは、という恐怖心を持つ中小企業も少なくない。
その為、最初から商流介入を前提とした進出サポートでは、警戒心が勝って、企業側がヘジテイトするのではないかと考えたのだ。
実際、当時の新聞には、連日日本企業の中国進出記事が出るものの、丸紅香港に在籍していた僕には、その熱気が実感できなかった。これは、中国進出を検討する企業の多くは、銀行、ジェトロ、商工会など、総合商社以外の組織に相談するためである。
「中国進出情報が欲しかったら、まず、商社の営業色を消さなくてはいけない」と考えた僕は、商社営業と一線を画し、コンサルティングを、完全に僕のビジネスとして位置付ける事にした。
更に、前述の通り、「情報は発信するところに集まってくる」という意見を持っていたので、情報発信を続ければ、何らかの反応があるに違いないと考えた。
インターネットや新聞、雑誌での連載は、そのためのものである。
では、商社営業に全く貢献しなくてよいかと言えば、そう割り切っていた訳でもない。
コンサルティングを提供した結果、丸紅に対する警戒心が無くなり、営業部を紹介して欲しいとの依頼が来ることがある。
その段階で、商社営業に繋げればよいと考えていた。
商社の営業色を消し、純粋なコンサルティングと位置付けた事で、徐々に実績は上がっていったが、社内では批判の声もあった。
「水野は二言目には守秘義務といい、一切の情報をシャットアウトしている。これでは商社としてコンサルティングをやらせている意味が無い」という意見が、それを代表する。
ただ、僕は全く聞く耳を持たず、「焦って孵りかけの卵を潰す事はない」と反論していた。
この様な賛否両論が有ったのは確かだが、その中で、温かい目で見守ってくれる上司・同僚がたくさんいた。結果として、徐々にではあるがビジネスを伸ばす事ができた。そして、今の僕が有る。
支援をしてくれた方々には、今でも深く感謝しているが、このギャップ(商社とコンサルティングの親和性)というのは、なかなか難しい問題で、最終的にそれが理由で、丸紅を辞めて独立する事になったのも確かである。
4.コンサルティング事業のその後
コンサルティングの本格始動初年度は、最高の形で終わったが、年明け早々、暗雲が垂れ込めた。これは、2003年早々から感染が拡大したSARS(重症急性呼吸器症候群)の影響である。
2003年早々に感染者が出ると、凄まじい勢いで蔓延し、中国本土・香港合計で7,000人以上の感染者、650人近い死者が出た。
特に、発症が広東省から広まった事から、香港・華南の影響は甚大で、人口約700万人の香港では、2,000人近い感染者が出た。
2003年4月には、香港のTV画面に、常に、感染者数・死亡者数が表示され、それが、刻一刻と増加していく。
街は静まり返っており、道行く人は皆マスクをしている。
エレベーターのボタンも指で押したがらないという、異常な状況であった。
昔見た、病原菌テロの映画を思い出し、それが、自分が住んでいる場所で進行している現実が信じられなかった。
当然、日本からの出張は禁止になるし、香港でも面談依頼はしにくい状況となる。
コンサルティングビジネスも一時期ストップを余儀なくされた。
せめてもの抵抗で、NNAと組んで、NNA読者限定の無料面談(無料コンサルティングの実施)をし、先方から面談を希望してもらうという企画を実施した。
残念ながら、ビジネスには殆ど結びつかなかったが、宣伝にはなったし、面談希望者が何人も来てくれたので、焦る気持ちを紛らわせる事ができた。
また、既存案件を履行するために、周囲の反対を押し切って、深圳や広州に出張した。
伝染病に対する恐怖よりも、思うように仕事ができないいらだちの方が強かった。
順調なスタートを切った新規ビジネスを、一刻も早く軌道に乗せたいと考えていた矢先にこの状況である。
ただ、こればかりは自分の努力では何ともならない。
数ヶ月後には、「環境に逆らわず、できる限りの事をしよう」と開き直り、逆境の中ではあるが、少しずつ契約が取れていった。
蛇足になるが、SARSが流行している間、家族が日本に避難したため、香港・中国本土内には、にわか単身赴任者が多数残された。
自炊ができない人間も多いため、二次会には行かないものの、夜の会食の誘いは多かった。
日本企業の出張自粛で交際費枠の消化ができないと悩んでいる(?)方も多く、そんな方々の招待で、何度も高級寿司屋に行った。
最初は、怖くてびくびくしていたが、日本人に感染者が出なかった事もあって、4月頃中旬以降は、完全に開き直り、喜んで鮨を食べていた。
SARSで外食産業が多数閉店、経営不振を余儀なくされたが、日本人相手の店は、少々状況が違い、店によっては特需景気の様になっていたのである。
SARSが収束するのは2003年7月で、この時をひたすら待っていた僕は、後れを挽回するため、積極的に講演会を開いた。
広州⇒中山⇒深圳と移動しながら講演会を開いた事は、今でも覚えている。
久々に、明るい気分に満ちた数日間だった。
SARS明けに、それまでサスペンドされていた日本企業の中国出張が再開し、反動で大忙しとなった。ほっとしたのは良かったが、その頃から、仕事に対するプレッシャーが大きくなった。
コンサルティング開始当初は、社内では誰も僕に期待していないので、何をやってもすごいねと褒められたのが、知名度が上がるに従い、期待が高まった。そして、同じ事をやっても、文句を言われるようになってくる。それがプレッシャーに繋がった。
僕は丸紅に入社してから、一貫して管理部門に所属していたため、自分の収益獲得ノルマ(予算)を負った事は一度も無かった。
経理マンにとって、決算とは、材料(営業部の損益・その他の計数要素)を基に、形作るものである。自分で材料を形作っていく苦労、つまり利益を上げていく苦労は、頭で分かっているつもりでも、実際にやってみると、想像を絶する苦しさだった。
5.海外の日本人社会
僕が新規事業を開始できた理由の一つに、「(日本ではなく)海外で始めたから」という点があると思っている。
「海外でよく立ち上げましたね」と言われる事があるが、一定の基盤と経験さえあれば、海外での事業立ち上げの方が、日本での立上げよりも却って容易である。
それは、少なくとも外資企業(日系企業を含む)関連の仕事をする限り、海外の方が、ソサエティが小さく競争が少ないからである。
当たり前の話だが、日本にいる日本人、日本企業が一番多い。
その中で、後発で事業を立ち上げて、特色を出していくのは大変だ。
海外での事業立ち上げは、この様な、立ち上げ時の競争を回避できる点でメリットがある。
また、海外には、日本商工会、県人会、その他の組織が有るため、この様な組織で人脈を掴み、その輪を徐々に広げていく事ができる。
この様な過程を経て、日本に逆上陸という方法も考えられる。
僕の場合も、最初は香港限定出版の予定であった書籍が、日本での流通に乗る様になったし、最初の講演会は香港だけであったが(香港商工会などの主催)、一定期間を経過すると、日本での講演会が主流になった。
更に、最初のビジネス関係は、香港・中国本土にいる僕と、日本企業の中国子会社間に限定されていたが、今では、本社を含めての関係となっている。
情報化が進み、すっかり狭くなった今の世界では、この様な逆展開が容易になっているのである。
因みに、海外の日本人社会で生活する際の注意点であるが、それは一種の閉鎖社会だという事である。
良い噂も悪い噂もすぐに広がる。
人脈を作るのは容易だが、一回でも不義理をすれば、その社会では生きられなくなる。
これにより、モラルが保たれている部分があるのはいいことだが、窮屈に思う事もある。
大学時代、五島列島出身の友人に、「卒業したら五島に帰って家業を継がないのか」と聞いたところ、彼の答えは、「お前は、田舎を知らないから、そんな事を言うんだ」というものであった。
彼曰く、高校時代、遅刻しそうになって走って登校すると、帰宅時には〇〇さんの息子が走っていたと、近所で話題になっているのだそうだ。
その時は、実感がわかなかったが、香港に赴任して数年経った頃、出社直後に同僚から「水野さん、昨晩三越前を歩いていたでしょう。知り合いから聞きましたよ」と言われて納得した。狭い社会で生きるのは、それなりに窮屈さを伴う。
6.コンサルティングを始めて変わった事
コンサルティングを始めて変わった事の一つに、知り合う人の数、経験の種類が大きく広がった事があげられる。
丸紅香港の経理だけやっていた頃は、1年の名刺交換枚数が、多くて50枚程度であった。
会議は殆どが社内会議であり、スケジュール表に書かなくても、この先一週間のスケジュールが覚えられた。
それが、コンサルティングを始めた事で、1年間の名刺交換枚数が2,000枚程度に増えた。
メーカー、物流会社、政府機関、新聞記者、TV局、ベンチャー企業など、付き合う業種も大きく広がり、それが刺激になった。
同じ会社の人間とだけ話していると、社内文化・社内言語が共通しているため、意思疎通も容易で、その分甘えが生じやすい。
幅広い業種、年齢層の方々と話す経験ができた事で、会議の際の伝達方法や言葉遣いも磨きをかける必要が生じた。
面談相手が、どの分野に詳しく、どの分野は不得手かを適格に把握し、それに合わせた説明をする必要があるからである。
メーカーとの取引が増えた事から、中国全土のみならず、日本でも数多くの工場を訪問した。そこで、商社とは違う価値観を学んだし、メーカーの人間の、商社とは違う逞しさ、そして拘りを体感した。
商社で経理をやっているだけでは、こんな経験はできなかったであろう。
TV出演や新聞・雑誌の取材もしかり。
業種が違えば、価値観やこだわりも違う。
色々な業種の方々と知り合い話をする事で、学ぶことが多かったし、経験の幅も広がった。
何より、沢山の人と話すのが楽しかった。
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